第12回ケアeスポーツカップTEKKEN8開催 最高齢95歳の鎬を削る場

eスポーツとして定義されるゲームタイトルは多いが、プロスポーツとして注目される一方で、ゲームというコンテンツそのものが若年層、高齢者問わず「プレイスキルさえあれば同一のステージに立てる」という大きな特徴を持っている。実際に操作するのが手元のコントローラーだけというタイトルであるならば、極論コントローラーを操作出来さえすれば、それ以上求められないのがゲームの醍醐味でもある。

第12回ケアeスポーツカップの一幕

 そしてこのゲームという土俵においては、年齢制限は存在し得ない。一般社団法人ケアeスポーツ協会主催の大会「第12回ケアeスポーツカップTEKKEN8【決勝大会】」が11月24日にライブ配信されたのである。同日開催された大会においては幾つもの名勝負が生まれたが、その切り抜きが暫時Youtubeへとアップされている。SNS経由で多くのプレイヤーの目に留まった大会の様子に「本当にこれは高齢者のプレイか」と驚きの声が上がっているのだ。

最高齢レベルのネット対戦大会

 同大会は一般社団法人ケアeスポーツ協会が主催するeスポーツ大会で、今回で第12回と好評のイベントとなっている。今回は『鉄拳8』を競技種目として開催されており、愛知・岐阜・三重の予選を勝ち抜いた男女8人の選手が、決勝トーナメントに参加するとの事であった。ケアeスポーツカップ初の格闘ゲームでの開催とあって、きちんと実況と解説をつけてのトーナメントとなっている。ルールとしては同プレイヤーが1試合3本選手、合計2試合での勝利本数で勝敗を決めていくというスタイルだ。

 これだけならば確かに通常のeスポーツの大会であるのだが、出場者の年齢が注目を集めた。最高齢の95歳、横田玲子さんは風間準の使い手。積極的な攻めの姿勢と共に相手に対する見切りも完璧なゲーマーなのである。前回大会の優勝者である「パンダ」使いの村部良江さんは73歳。そしてここに出場している選手はどの方もプレイが上手いのである。

 ゲームに慣れていないプレイヤーであれば、技の選択や判断をミスする以前に操作がおぼつかない状態が続き、いわゆる「レバガチャ」に陥るのが通例である。しかしこの大会、試合の様子は別窓できちんと配信されており、その様子を見る限りではどのプレイヤーにおいても操作において冷静な様子を失わずに戦いきっているのである。さながら上級者同士のライブ配信対戦の様な書きぶりではあるのだが、事実そうなのだから二の句が継げないのだ。

 大会自体も非常に長時間の配信となり、優勝者の発表はなんと開始から2時間35分。試合自体も7試合行われるという通常の大会と変わらぬまでのレベルとなった。優勝を決めたのは「クラウディオ・セラフィーノ」を操る92歳の酒井ヒサ子さん。もう一度繰り返すが御年92歳、優勝カップを狙っていたというだけあって準決勝で「アーマーキング」使いの加藤貞之さん、決勝で「リリ」使いの杉山五郎さんという優勝候補を相次いで撃破。浮かせてからのコンボをきっちり締めていくプレイスキルの正確さを見せつけ、見事に勝利をもぎ取ったのである。

eスポーツタイトルの裾野を広げる活動

 今回は高齢者同士の対戦となった鉄拳8であるが、見て分かる通りプレイに対して円滑に判断が出来るのであればどういった人であれプレイヤーとして認められるのがゲームの特徴だ。それはストリートファイター6でもパラeスポーツプレイヤー向けリーグが開催されるという所からも証明されている。全盲や操作困難といった強烈なハンデであっても、システム次第で対等に戦える土俵を作れば問題ないのである。

 加えて最近の格闘ゲームタイトルでは必殺技などのコマンドが分からなくても、ボタン一つでアシスト操作が発生するモードを備えたゲームが増えている。もちろんアシスト操作自体はプロのフィールドでは通用しないかもしれないが、それでも「楽しくゲームが出来る」というゲームに対する総合的なとっつきやすさのハードルを、大きく下げた事は間違いない。ゲームは何もプロプレイヤーの活躍する場所だけがゲームではなく、それを楽しむユーザーが支えてこそのゲームと言っていいだろう。

 今回の大会においてもどの選手も的確なプレイを見せており、動画についたコメントからは「人生の大先輩による世紀の大喧嘩」「ドラグノフ推しだが、おばあちゃんに勝てる気がしない」「ゲームやればいつまでも頭キレッキレで長生きできる。」といった肯定的に捉える視聴者も多い。老いてなお盛んとは言うが、ここまでのプレイングを見せられれば発奮するのが現役プレイヤーというものである。

 かつてMOTHER2のキャッチコピーが「おとなも、こどもも、おねーさんも。」という事で話題となったが、いまやゲームは「おとなも、こどもも、おじーちゃんも、おばーちゃんも、だれでも」遊べるものへと昇華しているのかもしれない。

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